私の実家は左京の吉田山の東の公務員の家でした。「四つ目建ち」というやはり町屋を町中から移築した建物で、植木屋の祖父がその前庭に池を作り表を 黒塀で囲って裏庭には鶏が走っていました。伝統的な造作を持った建物でしたが住んでいる私たちに「町家」(その頃は町屋)の意識はなく、古い木造の家とし か考えておりません。そのうちに建て増しをして裏木戸も閉じられて随分様子が変わってゆきました。昭和30年後半の頃です。
ここ数年前から京都市は市内の戦前の木造住宅を全て「町家」と称してカテゴライズして景観の保存に役立てていこうというガイドラインを作りました。 それで、以前のような中京を中心とする商売をする家で伝統的な造作を持っているものだけでなく、広く町家の認識がひろがっていきました。ですから、左京の南禅寺の私の実家もいまは京町家です。
都市機能を持った場所で、戦前からある木造住宅がたくさん残っているのは残念ながら京都しかありませんね。東京も大阪も神戸まで街中は太平洋戦争の ときに焼き尽くされています。近代戦ですから木造の集積地である日本の大都市は京都を例外として焼夷弾という焼くための効率のいい攻撃で何もかも失ったは ずです。
さて、その残った京都。皆さんが思ってられるよりたくさんの木造の古い家が残っています。一目みると看板でおおわれて木造に見えなくても少しはがすとしっかりと古い町家がその下から現れます。どうぞ、ご安心ください。
京町家の特徴や造作は御所を中心に発達しておりますので、塗らない木材が中心です。それらは、傷むと部分的に変えれば使えます。数奇屋の影響が強い のがデザインとしての特徴でもあると感じます。デジタルでなくアナログ、偶数より奇数。左右対称より3対7。光泉洞の屋号も店主の名を一字とっております が、仙洞御所(御所の中の名称)を意識しての命名であると感じられます。たまたま光泉洞はあまり改造されずに残っておりましたが、本来 町家は改造再生の 簡単な建物です。姉小路の近くでの実例ですが店として疲れ果てた町家が、再生されて伝統的な格の高い町家にあっという間に生まれ変わるのを見ることができ ました。都市という天災、人災に繰り返し会う運命の地に在る京町家は柔らかい構造と簡単に再生できる強さを持っています。そして、町中で人が出たり入った りしやすい構造を持っており、埃だらけの路から一歩はいると包み込むような空間の演出ができる建築です。
田舎の萱葺きの大きな農家も古い木造建築ですが、そういった民芸との対極にある日本家屋が京町家だといえます。職住一体がその元の姿でそれほどの大家族は想定されていません。代が替われば別の町家に移るといった事が独特の借家の伝統とともに形成されていたようです。 都会の中の仕事も生活もできる小さな家が典型的な京町家です。その実例が光泉洞です。
光泉洞 店主 諏訪幸子
京町家の保存についての論文
この論文では、店主が日本の伝統にもとづいた「京町家」の現状と、それにまつわる情報を英語で発信しています。 より広く、英語圏の人々にも届く事を願って。
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「光泉洞」は、築100年の京町家の屋号です。
表の看板は水車板の彫り看板ですが、その看板に屋号として「光仙洞」と記されています。
前のお商売が宝石屋で、小野光さんが御池通りで商っておられて御池の拡幅の折に一筋南の姉小路に移ってこられたそうです。その時に店の造作も少し変 えられて今の柔らかい女性的な表構えになったようです。御池通りは京都の市役所があって加茂川に続く広い中心の道として拡がったのです。もちろん大正から 昭和の初めの頃のことです。そして、その前は乾物屋さんのお店と隠居屋とが並んで建てられた「店」のほうの建物やったと近所の方に教えてもらいました。
そして、1996年から今の「光泉洞寿み」になって京都の家庭のお昼に京都らしいお番茶と生麩を揃えてお客様をお待ちする店になりました。
- 坪庭(つぼにわ)
- 建物の奥に設けられた小さな庭で、風通しと採光を兼ねたもの。 光泉洞の「坪庭」では、鳥獣戯画の陶人形が相撲をとっています。高山寺のイメージですが、作者は九州の高場英二、「いしの釜」です。土は信楽のものです。
































